私というステートメント
SAKI OTSUKA
15歳のあの日から、私は私を喪失しています。 あの日から繰り返し見る悪夢や、積み重ねられていく被害や言葉による傷は、巨大な痛みとなり私の中心に留まり続けています。 複雑性ptsdという心で、私は私を生きています。 性被害により失った自分を「ここにいる」と示すために、私の絵や写真は存在しています。
”絵” 幼少期から絵を描いてきました。イメージが次々に浮かぶことに気が付いてからは絵描きになりたいと思うようになりました。 心の状態が反映されるので、小さな丸を埋める様に細かく描く絵と、荒く絵の具や墨を広げ描く絵と、2つの性質の違う絵を描いています。心の状態により、雰囲気や画風が違うのも私の特徴です。 丸は私自身であり、私がここにいるという証です。喪失した私を取り戻すために、ひとつひとつ丸を描いています。 勢いよく荒く広げる絵の具や墨は、抑圧された自己の解放という私です。 私にとって私とは魂です。喪失した魂を生きるための絵であり私は新たな魂を埋めています。
”写真” 「ここにいる」という感覚を主観的にも客観的にも見る行為が写真です。 被写体だった私は、多数の写真家のモデルをしていました。私から生まれたアイデアやポージングは私のものではなく写真家のものとして評価されました。私という人生が写った写真も、私のものではなく写真家のものです。私は奪われることに疲弊していき、私は私のものであるのだからと自分を撮影することを始めました。 「ここにいる」という感覚を軸に私は私の過去の記憶やトラウマから発せられるイメージを追いました。私の過去や内面をなぞり撮影したセルフポートレイト作品から写真をスタートし、女性についてや、男女のヌード、風景など幅広く撮影しています。 セルフポートレイトでは性被害を表した「生贄」や「溺水」、男性に踏みつけられている姿のコラージュ作品「me」、トラウマが理由で目立つ格好を避ける自分に気付いた時に制作したフォトペイント作品「decorate」、複雑性ptsdに振り回される自画像としての「MONSTER」 など、自己に向きあった作品を撮り続けています。
女性の生きづらさは他の女性と私に共通する大きな問題ですし、ヌードはそれぞれの性という傷だと考えていて、その全てが私が見てきた現実です。 カラスや棘山シリーズは私の幼少期の心の痛みを表した作品であり、性被害者への誤解や被害者の怒りにリンクしていると考えています。 風景写真は私にとって「ここにいる」ということを表す自画像です。自分が存在する日常、自分が美しいと感じた景色、自分が過ごした時間という記録、この全てがリアルな現実であり私という人間がいた風景という自画像です。